maruta2の日記

お肉屋です

学校いって思ったこと日記

 アドラー心理学を勉強しだしてちょっと考えが変わった?

 

 月曜に思った更新された考え

 自分は今まで人の期待に応えることをモチベーションに行動してきたことが多かった。大学時代の部活の卒業前の自分は「自分に期待してくれよ!」のような言動が多かった。当時は「自分はすごいことをやっているのではなくて、やるべき、やったほうが部活のためにも自分のためにも良い」と思って行動していた。

 

 今日はその他の思いに気づいた。

「この部活のOBで目立ちたい!人格者になりたい!憧れるような人になりたい!」

 

「自分が道を築けばこの素晴らしい道場、部活が人間形成の場として価値があることが証明される。」

※いまはそう思わない。嫌と思いながら我慢して空手をすることの価値は低い。そのような部員が多く、新入生歓迎会を行い、退部を引き留めることは、以下の能力の形成を妨げている。 社会に出て必要なことは我慢ではなく、生きたいように生きるための勇気と強い意志だ。

 

 

だから「皆がやらないようなことをやるんだ」と行動した。

 キックボクシングへの挑戦は沖野さんの期待に応えるのと、北陸武道連合の横の繋がりを広げたいと思ったから。

 三浦道場に顔を出したのは雰囲気が好きであること、横の繋がりが増やしたいと思ったから。

 

 キックボクシングは本当にキツイってなって1回出場しただけで辞めた。それから大会出場のリクエストを断ることが辛かった。三浦道場は好きだった。勉強、バイト、講武館の稽古で時間を取れず、誘いを断ることが辛かった。

 

 部活とは関係ないが、特別支援教育に興味が向いたことは「多くの皆がやらないようなことだが、自分は興味がある」と思ったからである。

 

 

 

 

 今まとめていて思ったことは自分は究める人ではなく広げる人かもしれない。堀水さんとのお話の中で社会を変えていく人は、広げていく人達と言っていた。アンダーラインを引いて思ったが、スウェーデン、国際学類、エジンバラ、教育実習、一人で飲みに行く、ラズベリーなど大学時代の自分の行動はまさしくそれである。自分は講武館、ラズベリー特別支援教育の3本の芯があって広げることが出来た

 

 今はなぜか広げていくことが楽しいと思えないがそうかもしれない。

 

 行動の芯となる特別支援教育の軸が不安定になっている。やらないようなこと障碍とはなんなのだ。教員とはなんなのだ。他の教員の教育観や仕事へのモチベーションがバラバラなことが多様性と捉えることが出来ない。

 そしてラズベリー、講武館は過去のものとなった。新しい軸を打ち立てることが出来ていない。

 

 

 例えば人によって指導が異なると子どもは混乱するというが、本当なのか。当たり前のように子どもは父母、きょうだい、おとなによって接し方を常に探ったうえの距離で係わっている。

 

係わる人によって態度は変えてもいいものなのか?

 

態度を変えるのが人間らしいと思う。態度を変えるということは、自分らしく生きることが係わる人によって制限され、自分らしく生きていないことにもなると思う。

 

 アドラー心理学と全障研の先生の考え方は似ている。自分が現場で実践しようとすると放任主義のようにも思えてくるし良くないと思う。子どもをその気にさせるのが教育ならば、その方法はどこで学ぶのか。自らのトライ&エラーだとしたら全く思い浮かばない。