maruta2の日記

お肉屋です

ngt,chi.miw先生と話して

○教育現場には必ず経験主義者がいる。自分の考えを相手に伝える努力をせず、自分の成功体験をもとに指導をしていく。そういう人は自分より上と思う人の意見に対して素直に聞き、下と思う人の話は聞かない。また自分とは異質な人として関係に線を引きたがる。多様性をはき違えている、もしくはない人が現場にいるとき、その人をどのように認めるのか。沈黙は金なのか。

そのような人が(の)

 

療休に入らないように、

人格を否定しないように

プライドを逆なでしないように

 

 自分の意見を聞き入れてくれる素直さを引き出すにはどうすればよいのだろう。

 

○出るくぎは打たれ、出過ぎたくぎは打たれない。自分がどれだけ正論を言おうと結果がないと人は聞く耳を持たない。教育で言う結果は子どもの変わる姿。

 

 

○omの離席を止めさせたい思いからの「問答無用で椅子に座らせなけれればならないという指導は体罰だ。」と永田先生は言い切った。「椅子に座ってないと授業中でに立っても良いという誤学習をする」という誤解がその場にあった。安全第一というが、その安全は子どもの安全なのか自分の保身のためなのか。そして精神的には安全でない。

 

○na先生、chi先生、mi先生との話まとめ

「したい気持ちから出発する教育と、したほうがいい・しなければならない気持ちを引き出す教育」の違いを確認したい。

 自分(とたぶん全障研の先生たち)は前者、他の多くの先生方は後者の教育を大切にしているから齟齬が起こる。

 後者の先生方は子どもの目指す姿を設定し教育を受けられる12年間のうちに子どもの能力をいかに伸ばしていくかを考える。目指す姿(目標)から逆算して、今の育ちを考え、多少強引にも子どもが学習する環境を作る。その積み重ねによって目指す姿に到達する(目標を達成できる)。これを教育と考えている。例えば机上で行う課題を子どもに学習させる必要があると感じた時は、その子が机から立つことが出来ないように椅子を抑えるなどして環境を設定する。その子の立ちたいという気持ちを制止しているように思われる。しかしその子が知的能力を高めるための学習に参加するために、情報量を調整するという合理的配慮とも考えられる。これと反対の子どもに寄り添い「まぁそのままでもいいんじゃないか」的な考え方では子どもが育つタイミングが自然発生的な偶然の物ごとに限られてしまう。これは教育ではないと考えれれる。

  この考え方が適応主義ということであっていますか。