人気youtuberカルマの過去・芸能人とのつながりが明らかに!消される前にチェックせよ!!!
人気急上昇中のyoutuber カルマ 【KARUMA】が新着動画を投稿しました。
この記事を見てわかることは
・カルマが福岡から上京するにあたって何があったのか
・カルマとつながりのある芸能人
・芸能人のホームパーティの様子
の動画をまとめたものになります。
カルマの動画以上に芸能人の私生活が見えちゃいます!!!
↓
まずは急いで動画本編をチェックしていただきたいです....
こんな動画やっちゃっていいの!?
といったないようですね笑
・カルマが福岡から上京するにあたって何があったのか
→ヤンキー時代おじさんを救った現場でとよた真帆と偶然出会い、東京に来るように誘われた
・カルマとつながりのある芸能人
→とよた真帆(育ての親)
https://www.instagram.com/maho_toyota/?hl=ja
→ユージ(東京の兄)
https://www.instagram.com/yujigordon/?hl=ja
→伊藤歩(東京の姉)
https://www.instagram.com/ayumi__ito/?hl=ja
→鈴木奈々(仲いい友達)
https://www.instagram.com/nana_suzuki79/?hl=ja
・芸能人のホームパーティの様子
カルマの持っていたシャンパン
→モエ・エ・シャンドン 15000くらい
【突入時の時間21:30】
飲み会のテーブルの上
赤ワイン2本
白ワイン1本
ユージの家のティッシュ
→scottie
カルマの一杯目
→プレミアムモルツ 香るエール
鍋の味付け
【カルマの元カノカミングアウトの時間22:30】
※自己紹介の時間は鍋を食べ終わった後にやっている
→時系列が編集で逆になっている
意外と調味料とかは庶民的ですね。
ご要望があればもっと分析します!
それではおやすみなさい。
20190904の日記
日記再開の2019.09
特別支援学校の教員からお肉屋ベンチャー企業に転職した泰平君の日記になります。
毎月目標を立てて達成するようにしているのでそれをこのブログでもやっていこうとなりました!
9月の目標はこちらになります!
もし見守って下さる方がいたらよろしくです!
ngt,chi.miw先生と話して
○教育現場には必ず経験主義者がいる。自分の考えを相手に伝える努力をせず、自分の成功体験をもとに指導をしていく。そういう人は自分より上と思う人の意見に対して素直に聞き、下と思う人の話は聞かない。また自分とは異質な人として関係に線を引きたがる。多様性をはき違えている、もしくはない人が現場にいるとき、その人をどのように認めるのか。沈黙は金なのか。
そのような人が(の)
療休に入らないように、
人格を否定しないように
プライドを逆なでしないように
自分の意見を聞き入れてくれる素直さを引き出すにはどうすればよいのだろう。
○出るくぎは打たれ、出過ぎたくぎは打たれない。自分がどれだけ正論を言おうと結果がないと人は聞く耳を持たない。教育で言う結果は子どもの変わる姿。
○omの離席を止めさせたい思いからの「問答無用で椅子に座らせなけれればならないという指導は体罰だ。」と永田先生は言い切った。「椅子に座ってないと授業中でに立っても良いという誤学習をする」という誤解がその場にあった。安全第一というが、その安全は子どもの安全なのか自分の保身のためなのか。そして精神的には安全でない。
○na先生、chi先生、mi先生との話まとめ
「したい気持ちから出発する教育と、したほうがいい・しなければならない気持ちを引き出す教育」の違いを確認したい。
自分(とたぶん全障研の先生たち)は前者、他の多くの先生方は後者の教育を大切にしているから齟齬が起こる。
後者の先生方は子どもの目指す姿を設定し教育を受けられる12年間のうちに子どもの能力をいかに伸ばしていくかを考える。目指す姿(目標)から逆算して、今の育ちを考え、多少強引にも子どもが学習する環境を作る。その積み重ねによって目指す姿に到達する(目標を達成できる)。これを教育と考えている。例えば机上で行う課題を子どもに学習させる必要があると感じた時は、その子が机から立つことが出来ないように椅子を抑えるなどして環境を設定する。その子の立ちたいという気持ちを制止しているように思われる。しかしその子が知的能力を高めるための学習に参加するために、情報量を調整するという合理的配慮とも考えられる。これと反対の子どもに寄り添い「まぁそのままでもいいんじゃないか」的な考え方では子どもが育つタイミングが自然発生的な偶然の物ごとに限られてしまう。これは教育ではないと考えれれる。
この考え方が適応主義ということであっていますか。
駅のいじめ
かんじと飲んで終電で帰った東岡崎でサラリーマン3人組が目立っていたので見ると、2人が1人の髪を掴んで、殴っている。スネも殴っている。その1人はやめて下さいと言っている。
声をかけると
「仲良いんで大丈夫です。な?」
とリーダー的な奴が言い、「そうなんですよ」と1人が言う。
「自分たちの関係の仲で成り立っている行為なので、無駄な正義感はいいんで関わらないで下さい」となった
この正義感はいじめの防止に必ず繋がると思うので抑止力として絶対必要だと思った。その場で解決にならなくてもこんな人もいることを知れば加害者も被害者も不幸にならなくても良いかもしれない。
不快な思いにさせたことは謝るべきかもしれないが声をかけたことは謝るべきことではない。
人との関係のために、痛い(不快な)思いをする、させる必要があるの?
そもそも力がなければ笑いが取れない、人と関係を持てないことは乏しい。
学校いって思ったこと日記
アドラー心理学を勉強しだしてちょっと考えが変わった?
月曜に思った更新された考え
自分は今まで人の期待に応えることをモチベーションに行動してきたことが多かった。大学時代の部活の卒業前の自分は「自分に期待してくれよ!」のような言動が多かった。当時は「自分はすごいことをやっているのではなくて、やるべき、やったほうが部活のためにも自分のためにも良い」と思って行動していた。
今日はその他の思いに気づいた。
「この部活のOBで目立ちたい!人格者になりたい!憧れるような人になりたい!」
「自分が道を築けばこの素晴らしい道場、部活が人間形成の場として価値があることが証明される。」
※いまはそう思わない。嫌と思いながら我慢して空手をすることの価値は低い。そのような部員が多く、新入生歓迎会を行い、退部を引き留めることは、以下の能力の形成を妨げている。 社会に出て必要なことは我慢ではなく、生きたいように生きるための勇気と強い意志だ。
だから「皆がやらないようなことをやるんだ」と行動した。
キックボクシングへの挑戦は沖野さんの期待に応えるのと、北陸武道連合の横の繋がりを広げたいと思ったから。
三浦道場に顔を出したのは雰囲気が好きであること、横の繋がりが増やしたいと思ったから。
キックボクシングは本当にキツイってなって1回出場しただけで辞めた。それから大会出場のリクエストを断ることが辛かった。三浦道場は好きだった。勉強、バイト、講武館の稽古で時間を取れず、誘いを断ることが辛かった。
部活とは関係ないが、特別支援教育に興味が向いたことは「多くの皆がやらないようなことだが、自分は興味がある」と思ったからである。
今まとめていて思ったことは自分は究める人ではなく広げる人かもしれない。堀水さんとのお話の中で社会を変えていく人は、広げていく人達と言っていた。アンダーラインを引いて思ったが、スウェーデン、国際学類、エジンバラ、教育実習、一人で飲みに行く、ラズベリーなど大学時代の自分の行動はまさしくそれである。自分は講武館、ラズベリー、特別支援教育の3本の芯があって広げることが出来た。
今はなぜか広げていくことが楽しいと思えないがそうかもしれない。
行動の芯となる特別支援教育の軸が不安定になっている。やらないようなこと障碍とはなんなのだ。教員とはなんなのだ。他の教員の教育観や仕事へのモチベーションがバラバラなことが多様性と捉えることが出来ない。
そしてラズベリー、講武館は過去のものとなった。新しい軸を打ち立てることが出来ていない。
例えば人によって指導が異なると子どもは混乱するというが、本当なのか。当たり前のように子どもは父母、きょうだい、おとなによって接し方を常に探ったうえの距離で係わっている。
係わる人によって態度は変えてもいいものなのか?
態度を変えるのが人間らしいと思う。態度を変えるということは、自分らしく生きることが係わる人によって制限され、自分らしく生きていないことにもなると思う。
アドラー心理学と全障研の先生の考え方は似ている。自分が現場で実践しようとすると放任主義のようにも思えてくるし良くないと思う。子どもをその気にさせるのが教育ならば、その方法はどこで学ぶのか。自らのトライ&エラーだとしたら全く思い浮かばない。