maruta2の日記

お肉屋です

自分が「障碍のない社会を作る」という目的を見失った理由①

目標を失った理由

 

無駄な会議

 4月に学校に入って初めての職員会議では、2時間あるうちの30分が誤字の訂正の時間であった。そして会議ではなく教頭による資料の音読会であった。周りで寝ている教員もいて、時間と仕事のルーズさにイライラした。良い雰囲気が生まれるルーズさならいいと思うのだが、ただ聞いているだけの受け身な職員会議は本当に時間無駄だった。それからも職員会議、部会が何回もあるが形式的な儀式のようで起案に対しての発言は司会の部主事以外になく、ただの発表会であった。部主事も会議に期待は込めていない。これは会議ではない。

 

 

協力しない職員室

 4月の部全体の仕事の割り振りで「○○の仕事をやってくれる人」という部主事の声掛けに皆うつむいたままで、すべての仕事を部主事が引き受けていた。文部科学省がいう「チーム学校」のようなことは本当に現実とかけ離れていると感じた。そして協働はルールで縛るものではなく人が人を思って行動するものだとも思った。4月の初めは自分の仕事が少なく周りの先生に「何か手伝うことはありませんか」と声をかけていた。ほぼ毎回、手伝わなくてもよいと言われた。周りの先生に相談すると基本的には自分の仕事は自分ですることと、学年を超えて協力を仰ぐことはほとんどすることはないしできないと言っていた。 

 

 

共有しない児童の実態と帯時間割の放棄

 児童の実態や指導の方針、目指す姿を共有することなく始業式を迎えた。担任の2人は前の学年からの持ち上がりであったので、「聞きたいことがあったら聞いて」という雰囲気だった。自分は聞きたい事を具体的に絞ることができないので困った。共有するためにあったものは、6人分をA4の紙に纏められたものだけだった。自分たちもわからないので子どもの様子を見つつ話し合っていこうとなった。しかし実際に時間を取って話し合うことはない。点の話し合いばかりで線になることは難しい。

 自立活動の時間で子どもの体の学習をしているが、5月くらいから好きなようにしていいよと言われ続ける。動作法、静的弛緩誘導法の勉強会に行っても10年続けないと分からんよと言われるばかり。動作法の学習会で体の動きを行う理由を聞いても「経験から」としか言われない。なんとなくしか分からないのに、経験年数ばかり上がっていくことに恐怖を感じた。自分のわけのわからないまま触っている自立活動の授業が、今のこの子たちへの教育に全くなっていないのにどうしようともしないのが腹が立った。動作法、静的弛緩誘導法とあるが、毎日代わる代わる指導する教員が子どもの目指す姿を理解して今日はこれをやらねばならないと思えているのか疑問すぎる。毎日の自活の時間が、今日は動作法のこれ、今日は静的のこれ、今日は認知行動療法のこれ、といったようにばらばらであるならば、点の指導でしかなく効果はないと思う。しかも1年で担任が変わってしまうのでより点の指導にしかならない。

 動作法において子どものやりたい気持ちが分からない。子どもが座りたいと思うのは目の前の魅力的なものを見たい、触りたいといった、認知があってこそではないのか。座位姿勢のみを取り出し褒めてみても、子どもからしたらなんでこんなことをしないといけないんだと思うだろう。

 一番若手の自分が?となっている状態での職員同士の連携や情報共有が取れているとは考えにくいだろう。

 

 交流および共同学習

 事前にいろいろと相談していた内容と異なる通常校の児童の実態だった。6年生だと交流も6回目なので交流に慣れているので教員はあまり口出ししないほうが良いと聞いていた。自己紹介の場面で緊張している通常校の児童たち、交流活動を敬遠する児童たち、ただしょうがないから付き合ってやるかというような雰囲気で係る児童たち。全く慣れていない。これが慣れている状態ならば教員の目は本当におかしい。そもそも1年に1回の交流で障碍理解が深まるはずがないだろう。相手校の事前事後学習を聞くことも「相手校のことに首を突っ込むべきできない」と一喝された。本校教員には交流学習は1年に1回が固定化されており、他の行事と同様にこなすものと見なされていることが辛かった。自分にこの学校文化を変える力がなく去年の通りに従って動くことしかできない自分が辛かった。