maruta2の日記

お肉屋です

昨日はラグビー、今日は寝た後、竹沢先生

ラグビー後石原悠平と話して

 世の中の多くの人は自分も含めて自分の人生はこんなものと諦めて生きている(悠平談)。多くの人というよりは自分の周りにそういう人しかいないことがもしかすると原因かもしれない。自分の思想を持って生きる人は自分以上の人と係わることを意識していると思われるので、わざわざ人生に見切りをつけた自分たちと話をしに来ることはないだろう。

 

自分の友達と思える人はみなそのように生きていると感じる。だから誰と時間を過ごしても楽しいと感じないのではないか。自分が思想に沿って生きたいのならば、そよちゃんが話していたように人間関係を整理していく必要があるかもしれない。昔の楽しかった思い出にとらわれて、今を楽しめない人間関係なら変えるべきかもしれない。しかし友情と成長するための人間関係は異なるものだと信じたい。

 

 

 自分の長所をはっきりと認めてくれた。自分で全てを決めてスウェーデンの学校へ訪問しに行ったことは誰にでもできることではないし、まさに自分の人生を切り拓いているだろう。自分の強みである。学生時代に企業を目指したり、学生団体を立ち上げたりしていた人こそが、思想を貫き人生を切り拓いていく人であり、LITALICOのような企業にも必要とされている人材だと思っていたが、そうではないかもしれない。そのような人ばかりではそれこそ多様性がない会社になってしまうだろう。

 

 

今日思ったこと

 自分が特別支援学校で働いていて感じていた違和感は、現代社会に適応できるように子どもを育てていることである。それは福祉後進国の日本で障碍者である自分に不利益が生じないような生き方だ。

 

知的障碍と肢体不自由を併せ持つ子どもが介助者に対して、「車いすに乗りたい」というと、「乗せてください」と言いなさいと指導が入る。学校を卒業後に入る施設で良好な人間関係を築くためには介助者に「お願いする」姿勢が大切である。少人数の職員で大勢の利用者を見る中では、職員と良好な人間関係を築くことこそがその子の幸せに繋がるのである。

 

ここで問題なのはその子ではく余裕のない福祉の現場の体制であるのだが、現場の一教員ができることは適応させることしかない。

 

もちろん子どもが発達の主体であり、時代に適応させるような教育は教育ではないと奮闘している先生方は全国にはたくさんいるが、一つの学校の中の「今」にはほとんどいない。というのも「昔は情熱を持ってやってたんだけどね。」という先生の話をよく耳にする。今できない理由は現実とのギャップだったり、家庭や管理職という立場にあるそうだ。先ほどの例から考えると福祉の現場の態勢が、社会側の障碍であり、解決されれば障碍者が健常者の介助者に「お願いする」必要はなくなるだろう。