初対面でも盛り上げる会話ネタの作り方vol.1
どうも〜カニライターの〇〇です。
カニはカニでも人目についたり、地に足がついていない感じカニはなーんだ?
ヒント:人目につくを別の言葉で言うと…?
それでは初対面でも会話を広げるテクニックをハサミでまとめてみました。縦より横に広がるカニ会話を一挙公開します。
特にオススメしたい人
現在のSNSやTVに疎く、特にハマっていることもなく、オタクにもなりきれていない、欲求不満の未オタク。
・自分は人を羨ましむことが滅多にない。今までこれは自慢できる!みたいなことはある?
①羨ましいと思ったら素直に羨ましむ。
→滅多にあるやん!ってなっておもしろ〜
②羨ましいと思わなかったら「①を言おうと思った」と言っておもしろ〜となる。
まとめ
前置きが大事。よくあるコーラを一気飲みをして歴代徳川将軍を言いますといった、それできたらスゲェと思われる、かつ出来そうなレベルのものを言おう!
なぞなぞは適当に書いただけなのでいい答えがあれば教えてください。
読書メモ「嫌われる勇気」
・不幸であることを善(自分のためになる)とした生き方
・変えるもの、変えられないもの
・普通であることの勇気
・今ここにスポットライトを当てよ
自分の魅力と魅力でないところから言い訳を見抜く
魅力
・話の捉え方が普通の感覚では珍しい時があり、一笑いとれる
・熱い時もある
・お酒が好き
・度胸がある
魅力でないところ
・身長が低い
・だみ声
・話の内容がまじめすぎて暗くなる
・尻がでかく足が短い
・今が充実していない
から女性にモテないし好かれないだろうから、恋愛をしようとしない。
↓
誰かにアプローチをして振られて気まずい感じになるのが嫌なだけ
リタリコ かな…と思ったこと
学校の教員は現在の社会にいかに適応させていくかを考えていくという教員が多い。
自分が理想とするユニバーサルデザインな社会を生きる教育は理想と現実の間が抜けている。現状に適応できないが、自分の実践する小さな取り組みによって社会が変わっていくのではないかと思う。
学校では理想と現実の間を埋めるスモールステップを学ぶ場所がない。子どもの安全管理、社会に適応させる方法、子どもが参加できる授業作りが学べる。
同じ理想を掲げるリタリコ はスモールステップを踏んでいるはずじゃない?
今日思ったことちょっとすっきりしたかも
自分が自信を失った理由①
・今の自分の名前は石原泰平であるが、大学までは丸山泰平として生きてきた。このかつての名前が自分で気に入っていたが、両親の離婚で苗字が石原になった。自分は新しく出会った誰にあっても石原と呼ばれる。丸山(大学までの自分)は社交的なイケイケタイプだったが、石原は(社会に出て適応できなかった)社交的ではない性格。かつての丸山と石原が切り離されている気がするのでうまくいっていない。
泰平は平和という意味でこれも気に入っていたのだが、自分が一生会いたくない父親の名前が入っていることに気づいた。心から気持ち悪いと思ったし、自分が人生で成功するわけないと思った。成功とは楽しく充実して毎日を生きるということである。
自分が自信を失った理由②
教員のイメージ
・自己中心的で協力的ではない。頼まれたら手伝うが、自分から何かをするという行動が全くない。第一回の職員会議では小学部全体での仕事の振り分けの際に、誰も手を挙げず目が合わないようにうつむいていた。結果部主事が引き受けることになった。
・決められた枠(学習指導要領)の中の最低限の仕事しかしない教員が多すぎる。「文部科学省は地域に開かれた学校を作る」ことを目標にしているのにも関わらず、教員にはその認識が全くない。先日学校で地域のゴミ拾いをしようという行事が業後にあったが、参加する寄宿舎に住む児童と係わりのある教員、管理職しかいなかった。
→自分が教員が嫌いなのは、教員を志望する時点では願書や集団討論で地域、家庭と繋がりを大切にすることに共通認識があるのに、現場ではその認識がないことだ。教採は面接も、討論もただの「テスト」であり、その後の仕事に結びついていない。県の求める教員像の採用段階をクリアしている人はいるのだろうかと本当に思う。児童の発達心理学を押さえているだけでも子どもへの係わり方は変わってくるはずなのだが、みな知らない。
・いかに上手く手を抜けるかばかりを考えている。
・自分が主体的に生きていない。指示待ちや些細なことの決断に対して慎重すぎる。修学旅行に持っていく傘を借りるために事前に一声かけ、直前にもう一声かけるなど。傘だよ?かといって器具庫の備品などは勝手に借りている。
・自分が生活で身についていないことを子どもに教える。例えば「挨拶は大きい声でする」と指導する教員達の朝礼での挨拶は虫の声ほどしかない。通り抜け禁止と書いてある場所を当たり前の顔をして通行する。地域の人に挨拶をしない。
・座学は必要ないと思っているので勉強しない
・新しいことに対して超消極的
・児童の前で教員同士が雑談をする
・教員、介護員、看護師、養護教諭、栄養教諭、事務職員の連携が事務的なこと以外ない。これだけ多くの職種が校内にいるのにもかかわらず、事務作業でしか繋がれないのが勿体ない。
・仕事が非効率的すぎる。修学旅行の下見に8人で行く必要ある?
・筋が通っていない。県のお金だから、100円単位の物や換気扇をずっとつけるな等と節約しろという割には、事務用品を定価で買っている(ガムテープが600円くらいしている)。馬鹿か。
・筋が通っていない。研修の制度があるが、休みを取って研修に行く。研修をした後、まとめることがフィードバックとなって身につくと思うのだが、誰もしない。
・保護者に気を遣いすぎてコミュニケーションの量が少なくなっている。
・教員の口癖「したいとおもいます」が嫌い。したいと思うじゃなくてするんだろ。子どもが嫌だって言ったらやらんのか。子どもが他人(教員)の気持ちに寄せるためとも取れるかもしれないが、子どもが嫌と言った時に教員側からの寄り添いがないので上下関係がある。教員の思惑に乗せる感が嫌。
今日はこんなもんにしよ
自分が「障碍のない社会を作る」という目的を見失った理由③と日記
自分はどんな人なのかわからなくなった。今までしてきた自分の行動は努めてこうあるべきという自分でしかなかったように思う。しかし努めてきたことが自分の中に全く積み重なっていないので、わずか3カ月ほどでできなくなった。
・友達の中で話題や楽しみの中心的に振る舞う自分
・年齢や国籍にかかわらず誰とでも話せ、仲良くなれる自信を持っている自分
・友達の楽しいに合わせて楽しいと思い込む自分
・常に活動的である自分
・そのなかでもしかするとこんな自分もいるのではないか
大学4年時にはまった障碍の勉強の影響で「社会から障碍をなくす」ためにいろんなことをする人生を送ると決めた。勉強の影響だけではなく、障碍の勉強をしていることが自分のアイデンティティなのだと思ったからではないのか。自分の交友関係は他職種、他学類が多く、特別支援専修の友達は勉強や教員になることに対して意欲的ではなかった。その中で障碍の勉強に興味を持つことが出来たことが、自分のアイデンティティと思ってしまったと考えられる。
勉強会で会う人たちと話すと「障碍の勉強に興味を持つことが出来たこと」が自分のアイデンティティではないと分かったので目標のない大学3年生の頃の自分にもどっていると感じた。また岡崎の地に来たことで高校3年生の自分に戻っているのではないかと思った。
いまだに抜けない自分はこうあるべきということ
・目標のない人生を受け入れるべきではない
・努力の積み重ねのない毎日は無駄である
最近感じた自分の欠損
・何気ない日常会話のほとんどすべてがしょうもないと感じてしまう
・話したい話題はない
・好意的に話しかけてくれる人に対して申し訳なく思う
・○○したいけど、できない又はしたくない、という矛盾を持っている
(仲良くなりたいけど...、仕事、転職、恋愛)
・人当たりの良い博識な素敵な先生や岡崎に引っ越してきてからであった多くの人に失礼なことをしている。多くは優柔不断が原因である。